ちかちゃんの脳内ワチャワチャ会議

子どもにとっての「教育」

子どもにとっての教育とは、いったい何なのだろう。
そんなことを、ここしばらく考え続けています。

理屈で言えば、おそらく多くの人がこう答えるでしょう。
「教育とは、社会に適応するための準備の場だ」と。
それは一理あります。
否定する人は、あまりいないかもしれません。

けれど――それだけで、本当に足りるのだろうか?
そんな疑問が、ふと心に湧いてくるのです。

いま私は、ある人の活動を手伝っています。
その人は「自由に、楽しく学べる空間」をつくろうとしています。
塾のようで、けれどもっと開かれていて、のびのびと学べる場所。
私はその構想に強く惹かれ、運営や仕組みづくりの相談に乗っています。

地域との関わり方、継続的な運営の方法――そういった実務的な話には、比較的答えが出やすい。
けれど、肝心の問い、「自由に、楽しく学べる空間とは何か?」と向き合うと、途端に霧がかかります。

結局のところ、それは主催者自身が、時間をかけて、手探りで見つけていくしかない。
私は、そう思っています。

「社会にどう適応するかを学ぶ」――確かに、それも教育の一つの側面かもしれません。
けれど、その“社会”が、これからどう変わっていくのか、誰にもわからないのです。

今の子どもたちが大人になる頃、どんな社会が待っているのか。
それを、私たちは想像することすら難しい。

とくに、AIが急速に進化し、あらゆる分野で人間を凌駕しはじめているこの時代。
「社会に適応すればいい」という言葉が、どこか空虚に響いてしまいます。

偏差値教育が、時代にそぐわなくなってきていることに、気づいている親は少なくありません。
けれど、「では、どんな教育がふさわしいのか?」と問われると、誰も明確な答えを持っていない。
だからこそ、「とりあえず偏差値の高い学校に入れておこう」という、“無難な選択”に落ち着いてしまう。
それが悪いとは思いません。けれど、どこか寂しさも感じてしまうのです。

そして思うのです。
「社会に適応する」という考え方そのものが、もしかしたら、もう時代遅れなのではないか、と。

この言い方では、「社会」が主であり、「人」が従になる。
人間は、自らの頭と心で考え、行動する存在のはずです。
その人間が、ただ“社会に合わせる”ことを目的にしてしまったら、本末転倒ではないでしょうか。

AIが加速度的に進化していく中で、
人間だけに残されるものとは、一体なんでしょう?

私は、0と1の間にあるもの――つまり、数値化できない、形にならないけれど確かにそこにあるものに、希望を見出したいのです。
感情、直感、想像力、創造力。
理屈では説明できないのに、なぜか人を惹きつけるもの。
そういった曖昧さや不確かさの中に、私は人間らしさの「最後の砦」があるように思うのです。

そう考えると、子どもにとっての教育とは、
「社会に適応する力」を育てることではなく、
「どんな社会であれ、自分で考え、選び、歩んでいく力」を育てることではないか――
そんなふうに思えてきます。

それは、すぐに成果が出るものではありません。
誰かが用意した“正解”があるわけでもありません。
けれど、「問いを問いのまま抱え続ける力」こそが、これからの時代を生きる子どもたちにとって、もっとも大切な力なのではないでしょうか。

「自由に、楽しく学べる空間」とは、
そんな問いを恐れずに持ち続け、
急いで答えを出さず、自分のペースで探っていくことのできる場所。
それはきっと、子どもたちの「生きる力の土壌」になるはずです。

そして私たち大人にできることは、
子どもたちのそばで、ともに悩み、考え、問い続けること。
それこそが、教育という営みの、本当の姿なのかもしれません。

<インスタ>

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<ノート>

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