
― 社会に適応するだけでは足りない時代に ―
子どもにとっての教育とは、何なのでしょうか?
「社会に適応する力を身につけること」
そう答える人が多いかもしれませんし、それ自体は間違いではないでしょう。
でも、私は最近、この考え方に少し違和感を持つようになってきました。
というのも今、私は「自由に、楽しく学べる塾」をつくろうとしている方のお手伝いをしています。
どんなふうに運営すればよいか、どう地域に認知されるようにしていくか――
そういった実務的なことはお伝えできるのですが、ある問いにぶつかってしまったのです。
そもそも、「自由に楽しく学べる空間」って何だろう?
この問いが、簡単なようでとても難しいのです。
「未来の社会」がわからない時代
「教育=社会に適応する準備」という考え方には、前提があります。
それは、「社会の形がある程度わかっている」こと。
でも、今の社会はどうでしょう?
AIが加速度的に進化し、働き方や価値観もどんどん変わっています。
子どもたちが大人になる頃、今と同じ社会がある保証はまったくありません。
そんな中で「とりあえず偏差値の高い学校に行っておけば安心」と考える気持ちも、よく分かります。
不確実な時代だからこそ、「確実に見えるもの」にすがりたくなる。
でも、それだけでは未来を生き抜く力にはならないと、私は思うのです。
「社会に適応する」ことの危うさ
「社会に合わせる」教育では、社会が変わってしまったとき、子どもたちはどうすればいいのでしょうか?
本来、社会は人間のためにあるものです。
なのに、いつの間にか「人が社会に合わせる」ことが当たり前になっている。
その構造に、どこかズレや息苦しさを感じます。
人間だけが持つ、AIに奪われない力
AIはすでに、論理や計算、分析の分野で人間を上回る力を持ち始めています。
将棋や囲碁の世界ではすでに人間が勝てなくなっていますし、文章や絵、音楽でさえAIが生成できる時代になっています。
では、人間にしかできないことって何でしょうか?
それは、おそらく「0と1の間にあるもの」。
感情、直感、想像力、共感、関係性、そして曖昧さを受け入れる力。
これらは、まだAIが完全に真似できない、人間だけが持つ領域です。
私はここに、「人間らしさの最後の砦」があるように思っています。
教育とは、「自分で考えて生きる力」を育てること
結局のところ、これからの教育とは――
社会に適応することではなく、社会がどう変わっても、自分で考え、自分で選んで生きていける力を育てることではないでしょうか。
それは答えのない問いに向き合い続ける力でもあり、
自分なりの問いを立て、対話しながら深めていく姿勢でもあります。
「自由に、楽しく学べる空間」の意味
私が関わっている「自由に楽しく学べる塾」は、
まさにそうした学びの姿勢を育てる場所になってほしいと願っています。
正解を教えるのではなく、
子どもたちが自分の内側から「知りたい」「やってみたい」と思える環境をつくる。
その中で、自分なりの価値観や考え方を見つけていく。
それが、これからの時代に必要な教育なのではないかと、私は思うのです。
大人にできることとは?
未来の社会を生きるのは、私たちではなく子どもたちです。
私たち大人にできるのは、彼らが自分の力で未来を選んでいけるよう、
一緒に悩み、問い、考え続けること。
教育とは、教えることではなく、共に考え、共に育つこと。
今、そんな視点から教育を見直す時期に来ているのかもしれません。