その呼び名は、一昔前は登校拒否、最近では不登校と呼ぶようになりました。 そろそろ、自宅学習生という呼び方にかえたらどうかと思います。 登校拒否と言われていた当時と今の不登校とはその状況がかなり違ってきてます。 一昔前(スマホが普及する前)の登校拒否と言われた当時の事例から・・
PCが子供の手には渡らずガラ携しか持たされず、世間(世界)からほとんど孤立せざるおえない状況に追い込まれた当時のこと・・ 大病院の精神科に入院していた中2の男の子をリハビリも兼ねて塾で預かったことがあります。 週2回ほど通ってきましたが、看護婦さんが本人に気付かれないように後方で付き添うようにして通ってきました。 勉強の方は、彼とのコミュのツールでしかなく、何を教えたかはよく覚えてません。
精神科へ入院することになった経緯は、実家が地方のド田舎であり、学校に通わず引き籠っていれば”針の筵状態”であったことは容易に想像できます。 登校拒否をその時すでに小2から中2にまで6年間続けてきたことになり、地元で入院できる病院・預かってくれる施設もなく、そのままの状況を続けることがあまりに可哀そうだ・・と親が判断したのでしょう。 3人兄弟の末っ子でした。 実家は農家であり、父親は役所勤めの公務員ということで、地方ではよくあるパターンです。 両親との面会は2度程ありましたが、私は医師でもなければカウンセラーでもありませんから、家庭内の事情に関して、ご両親はもちろん本人にも立ち入って聞き込むようなことはしませんでした。 登校拒否という事実が目の前にあるだけで、私にできることはどうやって彼と”コンタクト”をとるか?それだけでした。
中2とはいえ、これを知っとかないと将来困るだろう・・と思われことから始め、小学5年生程度の内容から始めたと思います。 学習能力は普通くらいでしたから、能力的に学校の勉強に付いていけないことが登校拒否の理由でないことは分かりました。 私が一方的に説明しているだけで、彼が頷くとか質問するようなことはなかったと思います。 そうこうしているうちにひと月が経った頃、「僕には居場所がありません」と、ボソッと私に一言放ってきました。 その言葉に、私は固まってしまったのです。 ああだのこうだの・・はぐらかすような受け答えはいくらでもできたでしょうが、真に受け止めた返答ができませんでした。 彼と私の間でどれくらいの沈黙の時間が続いたかは分かりませんが、今振り返ってみれば、その沈黙が彼からの信頼を得たようなのです。
それからしばらくして、主治医が私に面会したいという連絡があり病院を訪ねました。 その帰りに許可を得て彼を散歩に連れ出しました。 歩きながら、彼から私にいろいろと話してくるようになり、そんな会話の中に「いつまで病院に居ればよいのでしょう」と聞かれ、「君はいたって普通だし、病院にいる理由はなさそうだね」と私が応じました。 その後、学年的には中3になるころ、退院できることになったのですが、今更、田舎には帰れないし、それこそ、彼には居場所がありません。
ご両親と主治医と私の三者面談の中で、「アパートでの一人暮らしはできないか?」ということになり、病んでいた?中学3年生が退院後にアパートで独り暮らしというのは、今思えば、とんでもなくハードルの高いことなのです。 それでも、私の知り合いの不動産屋さんに頼み込んで、「私が責任は取るから・・」ということで、実現にこぎつけました。 私が住んでいる近くにアパートを借りることと、いつでも私に連絡がとれるような状況にあれば、しっかりした子でもあり、大丈夫だと判断したからです。 中学校には通わず、塾だけに通ってきましたが、定時制高校へ進み、その後、調理師の資格を取るための専門学校へ進みました。
その後、連絡を取り合うこともなくなり、彼の存在も忘れかけていたころ、風の便りに「どこどこのラーメン屋に努めている・・」という話を聞き、訊ねていったのですが、店内には前掛けをびしっと決めた凛々しい姿がそこにはあり、「店長!」という声に素早く反応した彼を見ていて、目頭が熱くなり、ただ黙ってラーメンを頂くしかありません。 店内に入った瞬間、彼と私の目線が交錯し、互いに意識しているのでしょうが、無理に会話をするつもりもなく、ここでも不思議な沈黙があったような気がします。 店を出る際に後ろから「ありがとうございました!」という彼の大きな声が聞こえてきましたが、私は振り返ることもなく、大きく頷いて店を出てきました。
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