視点の変化が生み出す「良い写真」

カメラ機材に依存しない表現の本質

「カメラを代えたからと言って、良い写真が撮れるわけではない。」写真を志す者であれば、誰しもが一度は耳にしたことのある言葉である。現代のデジタルカメラは驚異的な進化を遂げ、誰でも高解像度の写真を簡単に撮ることができるようになった。しかし、その便利さが、いつの間にか「良い写真=高性能なカメラで撮られた写真」という誤解を生んでいるように思えてならない。

確かに、最新のカメラは、暗所に強く、手ブレも少なく、色再現性も豊かだ。だが、それらはあくまで技術的補助にすぎない。本当に人の心を打つ写真は、被写体に対する深い観察と独自の視点、そして何を「伝えたいのか」という明確な意志から生まれる。そこにカメラの値段や画素数は、ほとんど関係がない。

例えば、同じ風景を複数の写真家が撮っても、それぞれの作品はまったく異なるものになる。ある者は広大な空を主役にし、ある者は足元の石ころにピントを合わせる。それは単に構図の違いではなく、「ものの見方」の違いである。写真とは、現実の写しではなく、写す者の内面が表出する「視点の表現」なのだ。

これは、絵画にも通じる。ピカソが鉛筆一本で描いた人物スケッチは、決して写実的とは言えないが、深い感情や存在感を宿している。なぜか? それは、彼が“見た”ものが独創的であったからである。どんな画材を使うかではなく、どのように世界を見るかが、表現の本質を決定づける。

写真においても、それは同じである。カメラを新調する前に、まず立ち止まって自分自身に問いかけてみるべきだ。「なぜ、私はこの瞬間を撮りたいのか?」「どんな印象を残したいのか?」。この問いを深めることこそが、写真家としての成長に最も直結する。

ものの見方を変えるとは、単に視点をずらすというだけではない。背景に目を向けることかもしれないし、音のない静けさを意識することかもしれない。または、被写体との関係性を見つめ直すことかもしれない。視点とは、感性と好奇心と内省の積み重ねの果てにようやく獲得されるものだ。

結局のところ、「良い写真」はカメラが撮るのではなく、「眼差し」が撮るのである。そして、その眼差しは、自らの内面の成熟とともに磨かれていく。カメラを代えるよりも、まず“見る”という行為そのものを鍛えること。そのほうが、ずっと確実に写真の本質に近づける道なのだ。

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投稿者:

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写真家です。アーティスティックな写真作品を制作してます。人物ばかり撮ってます。主にヨーロッパで活動してます。世界で最もメジャーな写真祭(アルル国際写真祭)に2016年に出展してます。

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