財務省..Zが日本を操っているのか?ザイム真理教の正体は?玉木雄一郎が解説

ずいぶん昔の話になるが

「共産主義が唯一成功した国」として日本を挙げた海外の学者がいましたが、その話とリンクしますね、財務真理教の話。 国(主に財務省)主導で行われた日本経済は著しい成長を遂げました。 ところが、共産主義国家同様、ある一定の水準に達して以降、その経済成長はしっかり止まりました。

ソビエト連邦崩壊、近年の中国などでも顕著ですが、年収1万ドルくらいまでは一気に成長しますが、それ以降が停滞してしまいます。財務省をまともな省庁にすれば、日本が従来の経済力を取り戻すことが出来るかもしれませんね。

国民民主党 榛葉幹事長はかっこいいね!

この記者会見では記者のレベルが良く、稚拙な質問はしてませんが、多くの場面で見受ける記者会見では、記者の稚拙さが目立ち、呆れる場面を多く見かけます。

優秀な若者であれば、新聞社やテレビなどのメディアには就職しないと聞いてましたが、「なるほど・・」と頷けます。上司に「これこれを聞いてこい」と言われて、会見場にやって来るのでしょうが、見ていて呆れるばかりですね。

JAL123便墜落事故とカルト支配構造】森永卓郎✖️林千勝 二人の話にタブーなし【これが本当の近現代史162】

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奇跡を起こせるのか!ドジャース 大谷

もう既に後がない

3戦先勝のディビジョンシリーズ

既に、ドジャースは2敗してしまい、

もう既に後がない

これからの2連戦を連勝しなければデビジョンシリーズは終わる

それでも、大谷は「この後、2連勝すればよいだけ」と

動じる様子はない

野球というものは個人戦じゃなくチーム戦だからね

自分一人の頑張りでどうなるものじゃない

それでも、大谷に動じる様子はない

今シーズン初めに一平さんの賭博問題に巻き込まれ、

メディアには自宅を空撮され

それでも、大谷は動じる様子を見せない

WBCのメキシコ戦だったかな・・

絶体絶命の場面から奇跡をおこしたね

勢いに乗るパドレス相手に奇跡を起こしても不思議じゃない

あと、数時間後に試合は始まる

奇跡を見れるかもしれない。

前川清 with 渡辺香津美【東京砂漠】

https://www.youtube.com/watch?v=fpC2SvF0hf8

前川清(まえかわ きよし)は、日本の歌手、俳優として高い評価を受けており、特に演歌のジャンルで知られています。1948年8月19日に長崎県佐世保市で生まれ、若い頃から音楽に関心を持ち、デビュー後すぐにその魅力的な歌声で多くのファンを獲得しました。彼の音楽キャリアは1960年代に遡り、その活動は現在に至るまで続いています。

音楽家としての功績

前川清は、もともとザ・ドリフターズのメンバーとして音楽キャリアをスタートしましたが、1969年に内山田洋とクール・ファイブに加入し、リードボーカルとしての活動が始まりました。グループの代表曲である「長崎は今日も雨だった」(1969年)は日本の音楽界で大ヒットし、前川の知名度を一気に押し上げました。その後も「そして、神戸」「逢わずに愛して」「思い出グラス」など、数々の名曲を世に送り出し、演歌界の代表的な歌手としての地位を確立しています。

独特の歌唱スタイルと感情豊かな表現力が彼の強みであり、時代を超えて多くのリスナーに支持されてきました。特にバラード調の楽曲では、前川の持つ深い感情を伝える歌声が多くの人々に共感を与え、ヒットを連発しました。

芸能活動と俳優としてのキャリア

前川清は歌手活動に加えて、俳優としても幅広いジャンルで活躍しています。テレビドラマや映画に出演し、その自然体で落ち着いた演技が評価され、音楽ファンだけでなく、俳優としても多くの支持を集めています。バラエティ番組やトークショーにも出演し、そのユーモアと人柄が視聴者に親しまれています。

音楽アナリストとしての見解

長年にわたり音楽界で活躍し、演歌の歴史とともに成長してきた前川清は、音楽業界に深い理解を持っています。彼の音楽分析や業界についての発言は、他のアーティストや音楽評論家からも信頼されています。特に演歌や昭和時代の音楽についての見識は、アナリストとしての側面を持ち、多くの若手アーティストに影響を与えています。

人間性とキャリアの継続

前川清は長年にわたり変わらぬ人気を誇り、その理由の一つとして彼の誠実な人柄が挙げられます。派手なパフォーマンスではなく、歌詞の内容を大切にし、リスナーと真摯に向き合う姿勢が、多くの人々に感銘を与えてきました。デビューから現在に至るまで、彼の歌声は変わらず、世代を超えて支持されています。

また、彼は芸能活動の他にも社会貢献活動に積極的に参加しており、その人間性はファンだけでなく、業界全体からも高く評価されています。

前川清は、音楽家としての才能だけでなく、幅広いエンターテインメント界での活動を通じて、多くの人々に影響を与え続けています。彼の音楽とその背後にあるストーリーは、今後も多くのリスナーに愛され続けるでしょう。

Richard Bona – Dina Lam

これぞ、魂の歌 

Richard Bonaは、カメルーン出身のミュージシャン、作曲家、ベーシスト、ボーカリストで、世界中で非常に評価されています。彼の音楽スタイルは、ジャズ、ファンク、ワールドミュージックなど多様なジャンルの融合が特徴的です。また、豊かな音楽的感性と高い技術力を持ち、特にベースのプレイスタイルは世界中のファンとミュージシャンから絶賛されています。

初期のキャリアと音楽的背景

Richard Bonaは1976年、カメルーンのバミレケ族の家庭に生まれました。幼少期から音楽に親しみ、特に祖母が伝統音楽のシンガーだったことから、早くから音楽に対する情熱を育みました。彼は自作楽器で演奏を始め、7歳の頃には村でパフォーマンスを行うほどの才能を見せていました。

10代になるとフランスに移住し、クラシック音楽とジャズの学習を本格化させました。パリでは、ジャズ・クラブで演奏しながら、エレクトリック・ベースの技術をさらに磨きました。

国際的な成功

その後、ニューヨークに移住し、世界的に有名なアーティストたちと共演する機会を得ました。パット・メセニー、ジャコ・パストリアス、ハービー・ハンコック、ジョー・ザヴィヌルなど、名だたるジャズ界のレジェンドたちと共演し、Bonaはその卓越した技術と独自の音楽性で一躍注目を集めました。

1999年にはソロアルバム『Scenes from My Life』を発表。これにより、ソロアーティストとしての地位も確立しました。アルバムには、カメルーンの伝統音楽とモダンジャズ、アフロビートが融合した独自のサウンドが特徴です。

音楽スタイル

Richard Bonaの音楽は、彼のルーツであるアフリカのリズム、ヨーロッパのクラシック音楽、そしてアメリカのジャズの影響を強く受けています。彼の作品には、ボーカルと楽器の緻密な融合があり、特に彼のスキャット・シンギングとベースラインは非常にユニークで、彼のアイデンティティとも言えます。

アルバム「Munia: The Tale」(2003)、「Tiki」(2006)、「The Ten Shades of Blues」(2009)など、多数のアルバムをリリースし、ジャンルを超えた多くのリスナーを魅了しています。

近年の活動

Bonaは現在も、ソロ活動と共に、他のアーティストとのコラボレーション、ワールドツアー、音楽プロデュースに力を入れています。

不登校 沈黙

その呼び名は、一昔前は登校拒否、最近では不登校と呼ぶようになりました。 そろそろ、自宅学習生という呼び方にかえたらどうかと思います。 登校拒否と言われていた当時と今の不登校とはその状況がかなり違ってきてます。 一昔前(スマホが普及する前)の登校拒否と言われた当時の事例から・・ 

PCが子供の手には渡らずガラ携しか持たされず、世間(世界)からほとんど孤立せざるおえない状況に追い込まれた当時のこと・・ 大病院の精神科に入院していた中2の男の子をリハビリも兼ねて塾で預かったことがあります。 週2回ほど通ってきましたが、看護婦さんが本人に気付かれないように後方で付き添うようにして通ってきました。 勉強の方は、彼とのコミュのツールでしかなく、何を教えたかはよく覚えてません。 

精神科へ入院することになった経緯は、実家が地方のド田舎であり、学校に通わず引き籠っていれば”針の筵状態”であったことは容易に想像できます。 登校拒否をその時すでに小2から中2にまで6年間続けてきたことになり、地元で入院できる病院・預かってくれる施設もなく、そのままの状況を続けることがあまりに可哀そうだ・・と親が判断したのでしょう。 3人兄弟の末っ子でした。 実家は農家であり、父親は役所勤めの公務員ということで、地方ではよくあるパターンです。 両親との面会は2度程ありましたが、私は医師でもなければカウンセラーでもありませんから、家庭内の事情に関して、ご両親はもちろん本人にも立ち入って聞き込むようなことはしませんでした。 登校拒否という事実が目の前にあるだけで、私にできることはどうやって彼と”コンタクト”をとるか?それだけでした。 

中2とはいえ、これを知っとかないと将来困るだろう・・と思われことから始め、小学5年生程度の内容から始めたと思います。 学習能力は普通くらいでしたから、能力的に学校の勉強に付いていけないことが登校拒否の理由でないことは分かりました。 私が一方的に説明しているだけで、彼が頷くとか質問するようなことはなかったと思います。 そうこうしているうちにひと月が経った頃、「僕には居場所がありません」と、ボソッと私に一言放ってきました。 その言葉に、私は固まってしまったのです。 ああだのこうだの・・はぐらかすような受け答えはいくらでもできたでしょうが、真に受け止めた返答ができませんでした。 彼と私の間でどれくらいの沈黙の時間が続いたかは分かりませんが、今振り返ってみれば、その沈黙が彼からの信頼を得たようなのです。

それからしばらくして、主治医が私に面会したいという連絡があり病院を訪ねました。 その帰りに許可を得て彼を散歩に連れ出しました。 歩きながら、彼から私にいろいろと話してくるようになり、そんな会話の中に「いつまで病院に居ればよいのでしょう」と聞かれ、「君はいたって普通だし、病院にいる理由はなさそうだね」と私が応じました。 その後、学年的には中3になるころ、退院できることになったのですが、今更、田舎には帰れないし、それこそ、彼には居場所がありません。  

ご両親と主治医と私の三者面談の中で、「アパートでの一人暮らしはできないか?」ということになり、病んでいた?中学3年生が退院後にアパートで独り暮らしというのは、今思えば、とんでもなくハードルの高いことなのです。 それでも、私の知り合いの不動産屋さんに頼み込んで、「私が責任は取るから・・」ということで、実現にこぎつけました。 私が住んでいる近くにアパートを借りることと、いつでも私に連絡がとれるような状況にあれば、しっかりした子でもあり、大丈夫だと判断したからです。 中学校には通わず、塾だけに通ってきましたが、定時制高校へ進み、その後、調理師の資格を取るための専門学校へ進みました。

その後、連絡を取り合うこともなくなり、彼の存在も忘れかけていたころ、風の便りに「どこどこのラーメン屋に努めている・・」という話を聞き、訊ねていったのですが、店内には前掛けをびしっと決めた凛々しい姿がそこにはあり、「店長!」という声に素早く反応した彼を見ていて、目頭が熱くなり、ただ黙ってラーメンを頂くしかありません。 店内に入った瞬間、彼と私の目線が交錯し、互いに意識しているのでしょうが、無理に会話をするつもりもなく、ここでも不思議な沈黙があったような気がします。 店を出る際に後ろから「ありがとうございました!」という彼の大きな声が聞こえてきましたが、私は振り返ることもなく、大きく頷いて店を出てきました。

不登校 沈黙が意味するもの・・