
わたしという風景が、写るとき
私は生まれてこのかた、ずっと引っ込み思案だった。
幼いころから人前に出るのが苦手で、いつも教室の隅っこや、友達の背後に身を隠すようにして生きてきた。華やかさには憧れたけれど、そこに飛び込む勇気は持てず、どこかで「私なんて」と心にブレーキをかけていた。
そんな私が、ある日、カメラの前に立つことになった。
ことの始まりは、ごく偶然だった。友人が開いていた写真展で知り合ったフォトグラファーに、「一度モデルになってみませんか」と声をかけられたのだ。まさか自分がそんな対象になるとは夢にも思わず、最初は丁重にお断りしようとした。でも、その人の眼差しには、不思議な説得力があった。ただ「美しさ」を撮るのではなく、「その人の奥にある、まだ見ぬ風景を引き出したい」と、そう言った。

撮影当日、私はひどく緊張していた。
何をどうしてよいか分からず、手も足もぎこちなく、視線は定まらず、顔が強張るのをどうすることもできなかった。でも、フォトグラファーは決して急がせなかった。「大丈夫、ただそこにいてくれたらいい」と言って、レンズ越しに静かに待ってくれた。次第に、私は“写ろう”とするのではなく、“ただ、いる”という感覚を少しずつつかみ始めた。
レンズの向こうに、自分がいた。
鏡とは違う。思いがけない角度から、自分という存在が写し出されていた。そこには、どこか硬さの残る私もいたが、ふとした瞬間、心の奥のやわらかさや、これまで隠してきた感情のきらめきが、不意に浮かんでいた。カメラは、そんな“隙間”を見逃さず、そっとすくい上げてくれていた。

何度かの撮影を重ねるうちに、私は「晒す」ことの意味を知った。
最初は、ただの露出だと思っていた。恥ずかしさや恐れを伴う、抵抗のある行為。でも、そうではなかった。心を開いていくこと、自分の輪郭を認めていくこと――それは“晒す”のではなく、“ひらく”ことだった。
引っ込み思案な私が、自分の輪郭を取り戻し、光の中に身を置いている。
誰かの目に触れることで、自分の存在が確認される。
誰かのまなざしに映ることで、自分の奥に眠っていた感情が目を覚ます。

フォトグラファーが差し出してくれたレンズは、私を解き放つための小さな窓だった。
いま、私は自分の居場所を少しずつ見つけはじめている。
それはまだ不確かで、たよりないものかもしれない。
けれど、光の中で見つけた「私」は、確かに私の一部だった。

この不思議な体験に、私は心から感謝している。
「写ること」は、こんなにも人を自由にするのだと、教えてくれたから。