あなたのブログの世界観に寄せるなら、この写真集は単なる「ヘアヌード写真集」ではなく、「時代を象徴した女性が、自らの身体を作品として差し出した記録」として語る方が、より個性的になります。
お勧め写真集 『細川ふみえ Fumming』
写真集には、その時代の空気が閉じ込められている。
何年経っても色褪せない作品がある一方で、その時代だからこそ成立した作品もある。
『Fumming』は、その両方の性格を持つ珍しい写真集である。
1990年代、日本中のテレビや雑誌で見ない日はなかった細川ふみえ。
「フーミン」という愛称で親しまれた彼女は、単なる人気タレントではなかった。
明るさと親しみやすさ。
そして圧倒的な存在感。
多くの人々に愛された時代のアイコンであった。
その細川ふみえが、写真家
篠山紀信
のレンズの前で、すべてを解放したのが『Fumming』である。2009年に刊行され、後に電子版では未公開カットも追加された。 (kodansha.co.jp)
しかし私が興味を惹かれるのは、ヌードそのものではない。
むしろ、「なぜ人は身体を写真に残そうとするのか」ということである。
若さは永遠ではない。
身体も変わる。
美しさもまた時間の流れから逃れることはできない。
だからこそ人は写真を撮る。
写真とは、過ぎ去る時間に対する小さな抵抗なのかもしれない。
本作を眺めていると、そこに写っているのは単なる肉体ではなく、一つの時代そのもののように感じられる。
バブル崩壊後の日本。
グラビア文化が最も輝いていた時代。
テレビがまだ国民的メディアだった時代。
細川ふみえという存在は、その時代の記憶と切り離すことができない。
私は長年、人物写真に関心を持ってきた。
また、美術モデルとして画家や写真家の前に立った経験もある。
その経験から言えば、本当に優れた人物写真とは、裸を見せる写真ではない。
その人が生きた時間を写し取る写真である。
『Fumming』には、まさにそれがある。
もちろん身体は美しい。
しかし、それ以上に印象に残るのは表情である。
どこか無邪気でありながら、大人の女性としての落ち着きも感じさせる。
その表情の中に、フーミンという人物の人生が垣間見える。
写真家は身体を撮っているようでいて、実は人間そのものを撮ろうとしている。
篠山紀信の作品には、そうした視線がしばしば感じられる。
『Fumming』もまた、その系譜にある作品だろう。 (kodansha.co.jp)
もしこの写真集を手に取るなら、単なるグラビアとして眺めるだけではもったいない。
そこに写る一人の女性と、その時代の記憶を感じながらページをめくってほしい。
すると『Fumming』は、ヌード写真集という枠を超えた、一つの時代の肖像として見えてくるだろう。
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