
人間が身体に惹かれることは、ごく自然な感覚である。美しいもの、未知なるもの、生命を感じさせるものに心が動く。それは人間が持つ本能的な「見る力」の一部であり、決して否定されるものではない。
しかし、写真という表現の場に立った瞬間、その好奇心は次の段階へ進む必要がある。
性的好奇心だけに留まれば、そこにあるのは消費する視線である。相手を「対象」として見る視線になってしまう。しかし、視覚的好奇心へ変化した時、人は身体の形、光と影、曲線、動き、表情、存在感へ目を向け始める。
さらに知的好奇心へ昇華すると、身体そのものを超えて、その人が歩んできた時間、内面、人生観、精神性まで感じ取ろうとする視線になる。
美しい身体とは、単なる形ではない。その人が生きてきた年月、経験、感情、記憶が刻まれた「人間という存在の表現」である。
写真家に求められるのは、見ることではなく、理解しようとすることだ。
被写体を所有するのではなく、対話する。
形を写し取るのではなく、存在を感じ取る。
その時、性的な興味は芸術を見る目へ変わり、身体への関心は人間への敬意へと変わっていく。
写真とは、欲望を満たすための視線ではなく、人間の美しさを発見するための知性なのである。