
境川慕情
雨に濡れた境川のほとり。
君は傘をひらき、
静かな緑の中に立っている。
私は少し離れたところから、
君を見つめ、シャッターを切る。
一枚。
また一枚。
そのたびに、
この眩しい時間を永遠にしたいと願う。
白と藍の浴衣。
鮮やかな赤い帯。
雨に煙る木々の緑。
その中に立つ君は、
まるで、これから始まる季節そのものだ。
私は老いている。
君には、これから何十年という未来がある。
君の前には、
まだ見ぬ季節がいくつも待っている。
けれど私の前には、
数えたくはないけれど、
確かに限りのある時間だけが残されている。
そのことを、
私は知っている。
だから君を見つめるほど、
嬉しさの奥から、
どうしようもない悲しみが込み上げてくる。
君の未来を思えば思うほど、
その未来の中に、
私はどれほど残ることができるのだろうと考えてしまう。
十年後。
二十年後。
その頃、君はどこにいるのだろう。
誰と笑い、
誰と人生を歩いているのだろう。
そして私は――
その景色の中に、
まだいるのだろうか。
そんなことを考えながら、
私は君を撮っている。
愚かなことかもしれない。
老人が、
若い人の未来を自分と重ねようとする。
叶うはずのない夢を、
それでも心のどこかで信じてしまう。
私は、そんな自分を
少し滑稽だと思う。
けれど、
それでも私は楽観的でいたい。
「きっと、まだ大丈夫だ」と。
「もう少しだけ、君のそばにいられる」と。
そう思わなければ、
君の美しさを見つめるこの時間さえ、
悲しみだけに変わってしまうから。
私は君の未来を奪いたいわけではない。
君の人生を縛りたいわけでもない。
ただ――
もし許されるなら、
君の長い人生のどこか片隅に、
私と過ごした時間を
小さく置いておいてほしい。
雨の日に、
境川のほとりで、
一人の老人が君を見つめていたこと。
君の姿を、
美しいと思い、
愛おしいと思い、
その瞬間を失いたくなくて、
何度もシャッターを切ったこと。
それだけを、
覚えていてくれればいい。
やがて私は、
君の未来から消えていく。
人は誰でも、
いつか誰かの記憶の中だけに生きる。
私にも、その時が来る。
だから今、
君を撮る。
写真とは、
未来を変えるものではない。
過ぎ去ってしまう時間に、
ほんの少しだけ
「ここにいた」と刻むものなのかもしれない。
雨に煙る境川。
傘の下の君。
そして、
ファインダーの向こうにいる私。
川は何も知らず、
静かに流れてゆく。
時間もまた、
同じように流れてゆく。
私はその流れを
止めることができない。
だからせめて、
一枚の写真の中だけでは、
君と私の時間が
いつまでも雨の中に佇んでいてほしい。
君がいつかこの写真を見返したとき、
もしほんの少しでも、
「あの日、私は愛されていた」
そう思ってくれたなら――
それでいい。
それ以上を望むことは、
老人の私には贅沢すぎる。
境川に降る雨よ。
どうか、
この想いまで流してしまわないでほしい。
私は君の未来を知らない。
私自身の未来さえ、
もう長くは知らない。
それでも私は、
今日という日を信じたい。
君と過ごしたこの一瞬を信じたい。
それは、
悲しみを知った老人の、
少し楽観的な夢なのかもしれない。
けれど――
人は、
未来が見えないからこそ、
未来を願うのだと思う。
だから私は願う。
いつか私がいなくなったあとも、
この写真の中で君が笑っていてほしい。
そしてその写真を見た君が、
ほんの一瞬だけでも、
あの日の雨の匂いを思い出してくれたなら。
それだけで、
私は十分に幸せだったのだと思う。
――境川慕情。
それは、
残された時間の短さを知る老人が、
それでも若い君の未来を信じ、
その未来の片隅に
自分の存在をそっと置いてほしいと願う、
楽観的で、
そしてどうしようもなく悲しい、
愛の記憶、記録である。

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